スコット・E・パラジンスキー
- スペースシャトル・アトランティス(STS-66)ミッション・スペシャリスト
- スペースシャトル・アトランティス(STS-86)フライトエンジニア
- スペースシャトル・ディスカバリー(STS-95)フライトエンジニア
- スペースシャトル・エンデバー(STS-100)ミッション・スペシャリスト
- スペースシャトル「ディスカバー」(STS-120)ミッションスペシャリスト
スコット・E・パラジンスキー(医学博士)は1992年3月、NASAの宇宙飛行士に選ばれた。スペースシャトルに5回搭乗したベテランであるパラジンスキーは、7回の宇宙遊泳47時間以上を含め、1,381時間以上の宇宙滞在を記録した。
パラジンスキーは1994年11月3日、STS-66アトランティスに搭乗し、初めて宇宙飛行を行った。STS-66のATLAS-3(Atmospheric Laboratory for Applications and Science-3)ミッションは、11年間の太陽サイクルにおける地球のエネルギーバランスと大気の変化、特に地球オゾン分布に対する人類の影響を明らかにするための進行中のプログラムの一部であった。クルーは、微小重力下での筋骨格系の萎縮を防ぐために彼が共同発明した自由浮遊運動である「手足間抵抗装置」の評価に成功した。
パラジンスキーはアトランティスのフライトエンジニアとして、1997年9月25日にケネディ宇宙センターから打ち上げられたSTS-86で宇宙へ帰還した。このミッションは、ロシアの宇宙ステーション「ミール」とランデブー・ドッキングする7回目のミッションであった。このミッションのハイライトは、米国のクルーであるマイク・フォールとデビッド・ウルフの交換と、シャトルを使った初の米露合同宇宙遊泳であった。クルーはまた、スペクトル・モジュールの損傷した船体の漏れを塞ぐために、将来のミール宇宙遊泳で使用することを想定したスペクトル・ソーラーアレイ・キャップも展開した。
パラジンスキーの次の宇宙飛行は1998年10月29日、ジョン・グレン上院議員とともにSTS-95「ディスカバリー号」に搭乗した。この9日間のミッションの間、クルーはスパルタン太陽観測宇宙船(パラジンスキーがナビゲーションを担当)の展開やハッブル宇宙望遠鏡軌道システム・テスト・プラットフォームのテストなど、さまざまな研究用ペイロードをサポートした。クルーはまた、宇宙飛行と老化プロセスの相関関係についての調査も行った。パラジンスキーが次に指揮を執ったのは、STS-100エンデバー号であった。2001年4月19日に打ち上げられたこのミッションは、国際宇宙ステーション(ISS)への9回目のミッションであり、クルーはISSのロボットアーム「Canadarm2」の運搬と設置に成功した。パラジンスキー博士は、カナダ人の同僚クリス・ハドフィールドとともに2回の宇宙遊泳を行い、次世代ロボットアームの組み立てと動力供給を行った。さらに2人は、スペースシャトルのランデブーとステーションの宇宙遊泳活動中に、宇宙間通信用の新しいUHF無線アンテナを設置した。
パラジンスキーは、2007年10月23日に打ち上げられたSTS-120で、ディスカバリー号のリード宇宙飛行士を務めた。このミッションでは、「ハーモニー」と名付けられたノード2モジュールが国際宇宙ステーションに運び込まれ、将来的に国際的な実験室がステーションに追加される可能性が開かれた。パラジンスキー宇宙飛行士は、ミッション中に4回行われた主要な宇宙遊泳の最後の1回で、太陽電池アレイの再展開中に損傷したアレイ・パネル数枚を修理した。
スペースシャトル、宇宙ステーション、ソユーズの訓練の宇宙飛行士室クルー代表、宇宙飛行士室ISS支部の副(運用・訓練)、宇宙飛行士室船外活動支部のチーフを歴任。コロンビアの悲劇の直後には、スペースシャトルの熱保護システムの点検・修理の主任宇宙飛行士を務めた。2009年3月にNASAを退官して以来、パラジンスキー博士は、テキサス大学医学部極地医療オペレーションセンターの創設ディレクター兼最高医学責任者を務めるなど、航空宇宙および医療分野の上級幹部として活躍してきた。2014年、アリゾナ州立大学の大学エクスプローラー兼実践教授に任命され、地球・宇宙探査学部およびフルトン工学部で教鞭をとっている。
ブルードット・テクノロジー社を共同設立し、国立研究所や大学研究所の破壊的技術を活用して、地球上の最大のニーズに取り組んでいる。